雑記 : 彼らと過ごした36時間49分と52秒
気持ちの整理をつける為の『Ever17 -the out of infinity-』まとめ。
この作品、全編ミスリードの嵐で、物語終盤において明かされる事実によって今までプレイヤが認識していた世界がごろっと変わるという、非常に推理小説と似通った構造を有しているんだけど、一つだけ推理小説とは決定的に違う点がある。
それは、読者を騙す行為に意味があるか否か、という点。
読者を騙すという行為は、推理小説では単純に物語に面白みを与えるというただそれだけのことで、そこに必然性は無い。
推理小説でたびたび(むしろ十中八九)出てくる“そんな奇抜で手間隙掛かるのなんて誰もやらねえだろ”ってトリック。
もともとトリックってのは、物語を面白くさせる為の手段のひとつに過ぎなかったわけだけれども、いつの間にかそのトリックそのものが日本の推理小説では必要不可欠、というよりも、むしろ主軸となっているというニンともカンとも言えない状況。
ちと余計なもん書きすぎた感じがするけれども、そういった手段が目的化している近頃の推理小説とは違って、この『Ever17』では読者を騙す事に意味付けをしている。
さらに、ノベルゲームというやつはゲームである以上、エンタテイメント性を出すために選択肢を用意し、マルチエンディングっつーものを設定しているんだけれども、このゲームではそれらにも意味を持たせてしまっている。
つまり、ゲームという名の制約を逆手に取っている。実に上手い。
んで、この制約を逆手に取っている特異な構造が形として最もよく現れているのが最後の最後のワンシーン。
ラストのココが手を振るシーン(一応伏せとく)によって、あたかもプレイヤとキャラクタが同じ時間を共有してきたかのような錯覚を覚える。
実は、この手の演出は使い古されてて、僕が知る限り、ゲーム『ツインビーRPG』や映画『ラスト・アクション・ヒーロー』でも同様の演出が見られるけど、やっぱ僕この手の演出好きなんだわ、と再確認。
『AIR』や『D→A』をやったときに感じたプレイヤの立ち位置に関する疑問(参照リンク:02/4/20、02/4/24、04/12/26)、
一度でもそういった「キャラクタ視点でプレイすることに疑問を感じた」人にはイチオシの作品。
ここには、そういった人たちを受け入れてくれる場所が在ります。
…直接表現は避けたが、ちとネタバレ気味だったかもしれん(´Д`;)